昭和46年08月10日 月次祭
平和奈心
どんなに素晴らしいたとえて申しますと芸能人でも、人気を落しましたらもうそれは実に哀れなものである。それは、飛ぶ鳥を落すように人気を博しておりましても、ね、一度、人気を落しますと、もうその人気を取り返すということは、もうなかなか難しい。せっかくのそういう人気を獲得し、皆の、まあ人気を集めておった者がどういうところから、その人気を落すのだろうかと。
これは信心を頂いておる者も、それを同じ様な事を思います。どんなに飛ぶ鳥を落すような御ヒレイを頂いておる教会でも、どんなに素晴らしい大先生と言われる人でも、神様の御信用を落したら、もうそれまでのこと。ね。さあ人気が落ちてきたからというて慌てた所でもう駄目。そのようにやはり難しいもんだとね、。そこでその人気を落さんで済む、または神様の御信用を頂き続けるという事はどういうことか。
どういう信心にならせて頂いたらいついつまでものおかげが受けられるか。どのように素晴らしい人が目を見張るようなおかげを頂いても、それは頂いたものですから、ね、落したらお終いである。ね、だからそれがけっして自慢の種にはならんのです。頂き続けておる事が有り難い。ね。私は思いますのに、やはり、ね、人気が出てまいりますと誰だって慢心が出る。ね、もう俺より上は無いように思える。
先日も秋永先生から聞きました。あるもう九州きってのご信心、それこそ飛ぶ鳥を落す程しの、おかげを受けられたまた信心も、その人の信心に皆が憧れを持って見ておった。ところが誰もその人を教導する者が無くなった。親先生という方が亡くなられたら、もうそれが自分のいっぱしの信心だと思うて、それが慢心の形で表れて来る様になったら、もうその教会の信者さん達までが「いやぁもうあの人はつまらん」と、言う様になった。私共がおかげを受けておるという言葉は有り難しの言葉ですね。
私共がおかげを受けておるという事は、どういう例えば思い上がらなければおられない程しのおかげを受けておる時でも、又はどういう難儀に直面しておる時でありましても、親先生を頂いておるということ。お参りをする、御理解を頂くとそこにです、はっきり「はあそうだった」と、思い当たらして頂くものがあるところから、おかげで慢心をせんですみ、おかげで意気消沈しておかげの頂けない状態から、またおかげの頂けれる状態になれるのは、私どもはここに、親先生という師匠を頂いておるからだということを改めて有り難いと思うという意味のことを話しておられました。
なるほど、親先生が居られる時に良い信心を頂いて、良いおかげを受けた。ね、だから、もうそれっきりなってしまった。えね。それが最高のものと思うようになった。俺の言うことに間違いはないというようになった。言うなら人を軽う見るようになった。ね、なるほど、まあだおかげ、おかげは頂いておられるに致しましても、第一人の信用がもうがた落ちに落ちてしまっておる。これは、またおかげもだんだんそれと伴うてくる事に違いはない。怖いことである。
芸能人の方達がです、もうそれこそ飛ぶ鳥を落すような人気を博しておりましてもです、一度もうその人気が地に落ちたら、もう人がそれこそ、ね、もう唾も引っかけない。特に芸能人なんかのね、この、いわゆる人気家業というものはそのようなもんです。見向きもしない。ね、信心も同じです。ね、神様がね、見向きもしなくなさったら、もう終い、ね。それはどういうようなところからそういう事になってくるか。芸道で言うなら、いわゆる、その人気に言わばあぐらをかいてしまう。
そして、いわゆる精進をしようとしない。信心でもそうです。俺の言う事は間違いはない。私の言う事が絶対だというようになると、ね、そこから精進をしない、ね。教祖様は、「一生が修行じゃ」と仰せられる。信心させて頂く者は一生が修行じゃ。ちょうど学者が、ね、年を取っても眼鏡を掛けて本を読むようなものであろうぞいと仰せられる。ね。自分のおかげがじゃなくて、信心の心の状態が一段一段、今までは感じ得られなかったところまで感じ得られるようになる。
今まで有り難くなかった事が有り難うなってくる。というようにです、ね、所謂心のおかげの世界が段々広がって行く事が楽しいのである。学者が眼鏡を掛けて、ね、年を取っても、やはり本を読む様なものであろうぞい。学徳が身に付いていく新しい知識が身に付いて行く事が、もう楽しゅうてたまらんのが、学者が眼鏡を掛けて年を取っても本を読むようなものであろうようにです、信心もやはり同じ事。ね。さあ総代さんなら会合えぇまあ。先日も総代会でそれ申したことでした。
丁度秋永先生がその日は参加しておりましたから、ね、今度御本部に行ってから、合楽という事がです、もうほんとに全国区から、ある意味でのまあ焦点になっておると。「合楽、合楽」と、この頃盛んに言うようになったが、合楽ちゃ大体どういうところであろうか。どういう信心じゃろうか。今までは、例えば軽視しておったり、ね、甘く見ておった人達もちょっとこう見直さなければおられないような状態が最近続いておる、という訳である。ね、「そこの教会のあなた方は総代ですよ」と。ね。
なら自分の事、目先の事に小さい事にこだわったり、それだけで信心がもう出来たように思うておると言った様な事ではなくて、ひとつ目を大きく見開かして頂こうという意味の事を話しておりました。限りない同じ修行であったら飽きますよね。けれども所謂新しい知識、新しい信心の世界。今まで感じ得なかった所が有り難く感じ得られる世界が広がっていくのですから楽しいのです。そして信心の修行は怠れない。人気を落したり、神様の御信用を落したらもうそれまで。
それは飛ぶ鳥を落すような勢い、御ヒレイを頂いておりましても、神様の御信用を落したらもうそれまでの事。そこで私どもがいついつ迄もそれを頂き続け、残さして頂くことの為にです信心は、ね、一生が修行であるという自覚。そこでその修行がこよない楽しいもの。こよない有り難いものになってこなければ、修行は苦しいことだ、辛いことだという事になったら、そんなに一生も修行せんならんならもう大変ということになるでしょうね。いわゆる学者が眼鏡を掛けてでも本を読むように、ね。
新しい知識の分野が広がってくることが楽しいのである。だから本読むのである。だから信心修行が怠れられんのである。ね。だから信心はね、そういうようなものだとひとつ思い込ませて頂いて、いよいよ神様の御信用を頂かして頂けれる信心にならして頂かなければならんのでございます。教祖の神様は、ね、これは教祖生神金光大神の世界と言うてもよかろう。ね。道を歩いておろうが畑で肥えをかけておろうが神の中を分けて通りおるようなものじゃという実感の中に金光大神の世界がある。ね。
これは今朝の御理解です。そういうね、そういうおかげの頂けれる、私は信心をです、頂かにゃいけん。道を歩いておろうが畑でこえをかけておろうが、ね、神の中を「ごめん下さい、ごめん下さい」と言うて分けて通りおるような実感。ね。そういう実感、そこはもう寝ておろうが、起きておろうがどこにおろうが神様をそこに感じることが出来るというのである。ね。こういう心であったら慢心も出ようがなかろう。ただ有り難い勿体無いだけである。ね。
先ほど、御祈念に、御霊様に御挨拶を申し上げる前でした。今度学院生が先日全員帰ってまいりました。それに一緒に同道して佐藤という修行生の方が一緒に合楽に行きたい、もう前々からの念願であった。その方は、もう本科ですから二年間、だから光橋先生あたり、光橋先生あたりと一緒に勉強された方。そして現在、その皆さんと一緒に勉強しておる方なんです。ぜひいっぺん合楽におかげを頂きたい。ね。こちらは、佐藤宿老の曾孫にあたる方。大変な、いわば家柄ですね。
教団きっての家柄であります。佐藤宿老と言えば教祖の時代の、いうならば近藤・白神・佐藤と言うてね。教祖の直信の中でも、もうその、いわゆる偉い先生の中でも佐藤宿老は、もうきっての御神徳家であると同時に、あの教典を編纂された方ですね。皆さんが毎朝あの頂かれる、あの教典を…。そういう例えば家柄に生まれられて、お父さんは今広島で教会を持っておられる。戦災に遭われてですね、あの原爆に遭われた。それがおかげで生き残って、今日その教会がある。
お父さんお兄さんが教会を守っておられる。ご自身はまあ自由の身である。まあ一生懸命お道の信心の勉強をしたいとこう言う。段々合楽から修行に参ります、その修行生の信心ぶりというか話を聞かれて、まあいうならば憧念心を起こされた。合楽に対する憧れを持たれるようになった。どうかしておかげを頂きたい。それから学院でもやっぱりその、いうなら法を犯して、酒やら飲んじゃでけんでも、やっぱこっそり陰で飲むらしいんですよ。そういうあの酒を飲むとね酒ビンが沢山溜まる。
その酒ビンをね、何と三百何十本集められた。それをかつがつ集めては下のお店に持っていかれる。丁度おかげで合楽におかげを頂く多くの旅費を頂いたから、今度はぜひおかげ頂きたいというわけ。一途なもの一念を燃やすとそういうことが出来る。何の収入も無いはずのところから、そういう収入が出来てきた。ね。一生懸命というものは有り難い。今日初めてここにお届けされるんですけれども、ここへつかれた途端に、この長い廊下を見られると途端にね、もう大変なショックを感じたて言うんです。
先生そのショックがだんだん日々ここで御用さして頂いているうちに、感動に変わってまいりました。あの廊下を踏みならさして頂く、それがもうそのままね、感動になってくる。どういう事であろうか。もう信心は理屈じゃないね。皆さんはどうですか?毎日あそこを行ったり来たりしながら感動を覚えられるでしょうか。初めはショックであった。それがね、まあ何と御神徳の満ち溢れたこの廊下である、このお広前であろうか。その御神徳の中に浸っておるという事が、あの廊下を歩かせて頂くに、もう感動。
いわゆる神の中を分けて通るような実感が、佐藤修行生の中にあるわけです。理屈じゃないでしょう。そしたら親先生初めて御心眼というのでしょうかと言うて、今朝の一時の御祈念か、の時に頂いた。ちょうどこの御神殿の真中に大きな柱がある。あの柱を境に大きな字を頂いた。こういうふうに頂いた。『平和奈心』と頂いた。しかもタイトル付きである。これは私が御理解を頂くのもそうですね。こう、御心眼に頂くとこれがタイトルが付いておる。これはね、もう理屈じゃないです、説明じゃないです。
字は書いてあるわけじゃないけどもね。御心眼を頂くと、心の中に浮かんでくるんです。これはこういう意味だといったようなふうに。ね。あの洋画なんか見るでしょう。言葉が分からない。横にずーっとタイトルが出るでしょう下に。ね。それを自分の心に感じているんです。ほんとにもう驚いたんですね。まあだここに来てから三日目かね。神様はどういう事でそういう事をです、しかも、その平和な心という、平という字はね、平、平たいという字を書いてね、うーん「一・八・十」と感じたという。
タイトルが付いている。平たいという字。「一・八・十」と書いてあるんでしょう。平和なというのは奈良の「奈」を頂いた。それは大きく示すと頂いた。大きく示すと書いてあるね、奈良の奈。心という字をね、「八・八」と頂いた。これが八に見えた。点々も八の字に、こう、見える。そういう、いうなら御理解付きですよね、なら、御理解付きちゅうかこのままが御理解なんです。
有り難い事だなあ、あんたなあまだ三日しか何日かしかね。成程ここで一心に信心さしてもろうて。ここの人は皆頂きます。これは子供でも頂きます。所謂親先生に帰依してしまう。親先生の心をだから親先生が頂くものをそのまま頂いておる。親先生が例えば、おうどん食べげ行く。あの皆を連れてからおうどん食べに行く。そして皆一様な物食べておるけれども、お金だけは親先生が払うておるようなもんです。
一本の柿の木がある。柿の木に沢山の柿が成るようにです、ね、合楽に御神縁を頂いて、合楽に本気で本当に帰依が出来る時にです、その一心を私の一心と同じことになる。だから頂くことも同じ事を頂けれるようになる道理であります。佐藤修行生はそこのところを頂いた。しかしたった三日ぐらいで、ようそげな事を頂いたなあ、しかも平和奈心の、今の一・八・十なんかという事、大変な意味があるようにある。大きく示すということなんかも大変なこと。
心という字を八・八と頂いたというような事は、もう愈々大変な有り難い事。そういうおかげを頂かせて頂いて、有り難いと思わせて頂いとったら、これは私が御心眼に頂くことがね、『大きな靴』をこう頂いた。長靴あのクリスマスの時にプレゼントをね、あの贈り物をここの中に一杯詰めるでしょう。靴片一方の靴に。ね。子供達の枕もとにこう置いてやるでしょう皆さんが。あの靴なんです。ははぁこれはね本人のいうならば信心によって生まれるものではなくてです。
神様がね合楽、合楽という、その憧念心に対して、しかもその一途を燃やして合楽におかげを頂いた。来て見ていよいよ驚いた。所謂驚いたというのは、ね、来た瞬間あの廊下を見てショックであったという、そのショックが日々感動になって変わってきた。そういうです、そういう信心の上に神様がね、ちょうどクリスマスのプレゼントを子供に贈るように、まあ言うならね、おやつのような物だ。ね。是は何時も何時も下さる物ではないということ。それにおかげが伴わなければならなん。
それに自分の生き方が並行していかなければならない。そういう信心修行に本気で取り組まなければならない。ほんとに私に対する帰依というものが、もう動かないものにならなければならない。そこからいうならば、足が地に付いて合楽の信心が頂けれるようになってきたら、これはほんとなものになる。まあだ片一方の足だ、そういう意味のね。けれども、本気で合楽の信心を頂こうという気になればです、そういうおかげを受けられるということだけは、だから分かるわけです。ね。
問題は信心が地に付かなければならない。片一方の靴じゃいかん。両方が要るのだ、という事になるのです。ね。どんなに飛ぶ鳥を落すような人気を、または御神徳を神様の御信用を頂いておっても、御信用を落したら、もう地に落ちたらもうそれまでのこと。そこで私どもはこれからまだ頂かなければならん。ね。頂いた時にです、秋永先生じゃないけれども、まあだほんとに頂いとらんなりに、もう合楽の信心なこげなふっち、もうお参りして来て御理解を頂こうともしない人達が段々この頃ある。
毎日遠かとこから参って来てどうして御理解を頂かんじゃろうかと思う。もう先生が言いなさるとはいつもきまっとるっていうふうに高を括っておるのじゃなかろうか。もうこれはそれまでなんです。頂いても頂いても頂き足らんのがみ教え。ね。頂けば頂くほど味わいが出てくるのが教えを行じていくということ。ね、ほんとに信心は一生が修行だ。しかもその修行は同じところに留まった修行ではなくて、いうなら山登りのように一段一段登っていくもの。だから一段一段視野が広うなっていくもの。
だから楽しいのである。だから学者が眼鏡を掛けてでも本を読むようなものであろうぞいということになるのである。成程これなら一生が楽しゅうこの修行が続けられるなということが分かる。そこんところを頂いて、そこんところをしっかり頂いて頂くおかげでなからなければ怖い。その信心をほんとに身に付けてからでなからなければ怖い。もう俺は分かるところは分かったから、もう修行せんでもよいというようなです、いわゆる秋永先生が言っておるその人の場合でもそうです。
そして自分どんが一番ほんなこつであると言う様に全国がけで自分の信心を、いうなら宣伝して回っておられる。成程立派なことなんだけれど、ところがどうかというと、それに反して反響というものはです、もうあの人の言うことはつまらん。自分方の地元の教会の、いうなら人達からです、いやもうあの人の話は駄目だと言うようになった。ね。それを教えて頂けない人がね、亡くなったら途端に、自分では気が付かんなりに、いわばもう先代の信心にあぐらをかいてしもうて収まってしまっておる。
おかげを頂いておらえるからいいようなもんだけれども、これでますます神様の御信用を頂き続けるということは難しい。その点有り難いことは、合楽は秋永先生自身が言っておるように、ね、翻然としてです、はぁ間違った考えのところは間違った考えのところをパッとこうみ教えを頂くところからまた次の信心に飛躍していくことが出来るという訳である。ね。だからそれを自分自身で体得さして頂いて、ね。
いつも自分の信心の歩みというものをです、ね、慢心が出ておる事はないか、ね、大けがのもとになるような状態ではないかということを確かめ確かめ信心は進めていくものだ。時間がないからこう舌足らずになりましたけれどもね。信心はとにかく一生が修行だと。しかもその修行というのは同じ事を修行するのではない。同じ修行をするというは、これはね、一生貧乏なら貧乏で暮らして言った様な事は、その信心が同道廻りである証拠。けれども、もっと高度な信心修行があるはず。
そこに新しい変わったおかげというものをそれに伴うてくるもの。それには本気で、佐藤修行生が頂いておられるように、ね、お互いの信心のいうならば足が地に付かなかなければいけない。本気で信心が地に付かなければならない。ひとつ本気で信心を分からして頂く。今日は、この平和奈心というような事を少し検討してみたかったんですけどね、また次に挑みましょう。ね。皆が願って願って止まない心。
一・八・十と言う様な事でもそうでしょう。もう広がる事が、もうおかげにおかげに花が咲いて行くと言った様な心。為にはどうでもこの平和奈心を頂かなければならない。和賀心を頂かなければならん。教祖の神様がそれこそ何処におられても道を歩いておっても、畑で肥えをかけておっても神の中を分けて通りおるようなものじゃと仰せられる実感を、何時も心の中に頂いておられた。金光大神のそういう世界に私どもは足を踏み入れたのである。ですからそこを私どもは歩かして頂かなければならんというわけです。 どうぞ。